シン・トー

読書とか、日常の中で感じたこととか、空想とか

思想の押し付け

平安時代には、生き霊や幽霊、式神などは、本当にいて、
それが見えたとしても、当時の人々は、さほど違和感なく、
そのことを受け入れることができた。
実際、当時の人の目の前にそういったものが現れていたのだ…
と、高校の教師は、僕を含めた教室のみんなに説明した。

そのことを教えられて、僕は、その時代に魅了され、
その不思議な世界観に想いを馳せた。

それをそれとして理解することの大切さ…
テレビ番組をたまに見たときに、よく思う。
それが、魔術なのか催眠術及びメンタリズムなのか、
超能力なのか科学なのか、
科学でどう説明するかは大事だけれども、
その解釈を科学で行うのが絶対だ!他の考え方は受け付けない!というのは、
科学という学問というよりも、科学という思想の押し付けでしかない。

もちろん、幽霊がいないことは分かっているのだけれど、
幽霊がいると信じている人を、科学的にいないと説得することに意味はないと思う。
それは、幽霊がいるという世界観の否定であり、
そうすることで、自分の世界観を否定された<幽霊がいると信じている人>は、余計に意地になる。
否定は簡単だが、色々な物事は、色々な考え方で説明できる。
だから、居るか居ないかの戦いという構図を作ってしまうのではなく、
科学なら、科学での解釈をうまく伝えていく必要があるし、
幽霊を信じる人が、科学の解釈に歩み寄ってもらうためには、
相手の思想まで全否定してしまってはいけないと思う。
それをする事は、脳科学が心理学を全否定してしまうようなものだと思う。

偏った考え方が蔓延すると、
その後、もう一方の偏った考え方が蔓延する。
科学ブームの後に、スピリチュアルブームがやってくるように。
その2つのテレビの取り上げ方、どちらもすべてをこの考え方で説明できる、と言っていて違和感がある。

なぜ、どんな写真を見ても、幽霊の仕業にするのか?
宇宙人の仕業にするのか?
そして、否定をするために科学を使う。全否定のみ。
悪魔の証明さえも即答する科学者。
ショーとして、面白いことしか考えていない。
面白いかもしれないけど、どちらも信用できないよね。

うつと祭りについて

祭りはうつをつくり出さないための環境装置であった。
僕の大学生の時の妄想ですが…
大きな音や、リズム、炎の光、
そしてパーソナル空間へ無理やり踏み込む言い訳として、
祭りは有効に機能する。
それは神様をたたえるための宗教的機能だけではなく。
古代の人々は、うつにならないために、
セロトニンをどうやって出したらいいか、
科学的に有効である方法を経験的に知っていたのではないか?
祭りを構成する要素は、祭りが無くても、現代の科学的技術などによって追体験できる。
しかし、否が応でも、無理やり始まっていしまう祭りは、
いつでもできる追体験よりも有効に機能することは、
明日出来ることは明日にしようと思ってしまう僕には、
容易に想像できる。