シン・トー

読書とか、日常の中で感じたこととか、空想とか

マトモとクレイジー

成田空港

明日、アメリカのアルバマーレとローリー・ダーラムに飛ぶために前泊ということで、成田に来ている。
やることないので、と、台風なのであんまり遠くに行って帰ってこれなくなるのもあれなので、空港をウロウロしている。
第三ターミナルに来たとき、嫌なことを思い出した。東京に遊びに来て、帰りの飛行機が天候的には全く問題ないのに突然の欠航になってしまった。機材のなんとかって言ってたな…
思わず写真を撮った。

その日は振り替えを行ってもらえず、次の日仕事があったので、やむなくANAで、正規の金額で帰った。
次の日仕事の場合はもう二度とLCCは使わないとそのとき決めた。

マトモとクレイジー

それほど自分のことを客観視できているかというと、微妙なんだけれども、第一印象で、僕のことを真面目と見る人はいても、ぶっ飛んでるなーと思う人は少ないと思う。
僕は、自分がマトモで無くなってしまうことを必要以上に恐れていて、自制しているからかもしれない…

いろいろな思考や感覚、感情は、そのもの…つまり言葉などの記号に置き換える前は、時には儚く、時には必要以上の力を持っている。その強さ自体も人によって感じ方が異なる。
その人や、また環境によっても感じ方が異なり、特に感性がマックスのとき(研ぎ澄まされているとき)は、受容する人物理的に影響を与える事もある(恐ろしさのあまりショック死する人もいるくらいなので)。
だから言葉のような記号にすることでよりフラットにする。
空間で例えるならば、空中(空)と、地面のような感じ。
感覚の世界は空中空間のように無限に広がっている。しかし、そこにとどまっていることは、空を飛び続けるように難しいし、大きな風に煽られて、飛ばされたり落っこちて怪我をする可能性もある。感覚を磨くために、古代にはシャーマニズムの世界のように修行があり、そこには、ドラッグの使用があるものもあり、失敗しないために師匠や教祖のような人に師事したんだと思う。
つまり、感覚の世界は危険であり、それを現実につなぎとめるために言語化(記号化)を行うんだろうと思う。

感覚の世界でぶっ飛ぶことは、(ドラッグなど使わなくても)容易にできる(と、思う、少なくとも僕はできるので)。山に行ったり、森に行ったりして、感覚を研ぎ澄ますことと、本を読んで、素なフラットな文字という記号を、頭の中で、感覚という空間へ展開、解凍、する事で…
そのようなときの僕を見ている人は、僕のクレイジーさを知っている。
お前そんなんだったっけ?と何度か言われたことがある。

でも、そちらの感覚の世界に行き過ぎると、戻ってこれなくなるんじゃないか?という直感がなんどかはたらいたことがあって、恐れという感情が働き、自制してしまう。

僕が海外を好きなのは、日本という同調圧力の強い社会では、開放できない僕の感覚が、少し解き放たれる快感を味わいに行く、という理由が、少しはあるんだと思う。

こんな長くてよくわからない文章をわざわざスマホで書いて更新している自分はやっぱり変だと、つくづく思う。