シン・トー

読書とか、日常の中で感じたこととか、空想とか

END

終わりについて

死は終わりであり、生は始まりであるととらえるか
僕は、“end”という英語の意味をこの事について考えるときによく想起する
“end”には終わる事や死の意味もある
しかし、元々は端という意味合いから始まっている(違ってたらごめんなさい)
ひもの両端のイメージ
時間をひもと考えるなら、生も死も同じように見える
この次元を生きる我々には、時間は不可逆的なものだから、そういう意味ではまったく違うものではあるが…
ものすごく俯瞰して見る癖がある僕にとっては、思考上において、全く同じものに見える事がある

意味があるかどうかについて

全てに意味があると思うことは、エネルギーがあるときには、やりがいを生み出したり、動機付けになったりして、良い事が多いように思うが、エネルギーがないときはしんどくなる。
全てに意味がないと思うことは、生きる事が本当に虚しくなる。

この世界をひとつのシステムとして考えたときに、全てを予測可能にすることは出来ないということを、ゲーデルとその不完全性定理を、チャイティンが情報空間…つまりこの世界全てに発展させて証明したそうです。
つまり、予想不能なことは起こってしまうのです。そして、予測不能にして起こった事にまで意味があると思うのは、間違いであると僕は思う。
しかし、起こった事が意味を持ち、他者を行動させたり、考えさせたりという事は起こる。

最近、知り合いの死が有った。若くしての死で、突然の死であり、その死が起こった事に対して意味を探す事をどうしてもまず行ってしまう。
何故、死んだのか?これは、ある意味答えの出ない問いであり、いつかは終わらせないといけないと思う。
知り合いの死は僕に、言葉にすると「死は誰にでも、いつでも、突然に起こりうる、だから、いつ終わってもいいように行動すべきだ」という意識を持たせた。僕にとっては人生においての大きな価値基準形成が行われたと思った。それは、知り合いの死が、意味を持って僕の価値観に影響を与え、その価値観は僕の中で存在し続ける事となった。

僕は、言葉で考えるタイプではないため、その知り合いの死によって、心の中はどうしていいかわからない状態がしばらく続いて、今はこういう考えに至っている。