海外研修
親切さ
今回アメリカに行って感じたことの一つは、日本人はもう、あんまり親切とは言えないんじゃないかということです。
アメリカ人の親切さを親切ととるか、おせっかいととるかは議論が分かれると思うけれど、困ってそうだったらじっと観察して、声をかける。こっちの方が近いぞ!と、自分の知ってることは伝えてあげたいという意識が強く、ほぼ間違いなく声をかける。
困っているときでなくても、買い物の時や、レストランでの注文など、たくさん言葉が飛んでくるので、英語が不得意な僕にとっては戸惑うことが多い。
これまで行った国では、少しの英語と、後は目ぶり手振りでなんとかなったんだけど、英語を勉強したいと思った。アメリカのとおせっかいな深切さをもっと感じたいと思った。
それと、日本人は親切だといわれるけれど、親切の方向性が違うだけで、どこの国も(少なくともモロッコ、キューバ、ベトナム、タイ、シンガポール、台湾)親切な人が大半だった。今、日本人として、もう少し親切でありたいと心から思っている。
アルバマーレ
理念の大切さ
今回、自閉症者への支援に関する研修で、アメリカにいかせてもらって、感じた一番大きなことは、理念、ビジョンの大切さです。
理念、ビジョンにのっとって、ゴール設定をする。その上で経営のことを考えるんだけれども、そのゴールを達成する過程で必ず考えないといけないことが経営であり、経営だけを考えてしまうと理念を見失ってしまう。
経営はもちろん大切です。人財も、教育も、しかしそれは理念を達成するために当然必要なものであり、向う方向自体ではない。船で目的地に向かっているとする。船が向う先が大切なものであり、船や推進力(オールやエンジン、食料)は当然必要ではあるが、それは目的ではないように。
理念を貫く熱量が、我々と全く違う。
道具や方法を見るのではなく、その部分をまずは見習うべきだと感じた。
研修
研修というものが個人的には好きで、積極的に参加するようにしている。
できるだけ、グループワークがある研修などの参加型の研修を選んでいる。
そうでない場合も、前から5番目以内の席に座る、質問を考えながら聞く(できるだけ質問する)などを、自分に課している。
ただの知識を学ぶだけでは、研修に参加する意味はないと思う。
本でいい
物事に取り組む熱量であるとか、成功者や講師への憧れ(あんなふうになりたい、やりたい)、なるほど!という体験、追いつめられたり交流したりそんな場数を踏むことで自分が変わっていく、そういった体験が、研修の意味だと思う。
最近は研修計画にかかわる事が多いので、そういった事を意識しながら研修を作ったり、意見を言ったりしている。
そういった、インパクトを受講者に与えるために大事なのは、場づくりだと思う。
受講者が問題に直面しても、特に色々な職種や、性別、年齢とばらけるほど、研修にどれだけの熱量で参加しているかもばらばらになり、一生懸命な人と、出来れば楽に終えたい人が出てくる。
いやいや参加したとしても、充実した研修にしてほしいと思うと、それだけの場づくりをしないといけない。
つまり、すべての人に“直面させる”という事になると、それ相応の場をつくらないといけない。
“直面させる”というのは、研修のテーマにより必死で向き合わせるという事です。
研修の講師として、すごい人はその場づくりがうまい人だと思う。
しかし、我々は素人であり、素人でも場づくりを効果的に行いたいと思うと、無人島、海外、自衛隊、等、実際に場所を変えてしまうという事が一番です。
言葉が通じない中に放り込まれることで、食料も自己調達しないといけない過酷な状況に追い込まれることで、みんなで力を合わせて、問題に取り組もうとし、チームワークが身につく。
まあ、会社とかでやりすぎるとブラック企業とか言われてしまうけど。
マトモとクレイジー
成田空港
明日、アメリカのアルバマーレとローリー・ダーラムに飛ぶために前泊ということで、成田に来ている。
やることないので、と、台風なのであんまり遠くに行って帰ってこれなくなるのもあれなので、空港をウロウロしている。
第三ターミナルに来たとき、嫌なことを思い出した。東京に遊びに来て、帰りの飛行機が天候的には全く問題ないのに突然の欠航になってしまった。機材のなんとかって言ってたな…
思わず写真を撮った。
その日は振り替えを行ってもらえず、次の日仕事があったので、やむなくANAで、正規の金額で帰った。
次の日仕事の場合はもう二度とLCCは使わないとそのとき決めた。
マトモとクレイジー
それほど自分のことを客観視できているかというと、微妙なんだけれども、第一印象で、僕のことを真面目と見る人はいても、ぶっ飛んでるなーと思う人は少ないと思う。
僕は、自分がマトモで無くなってしまうことを必要以上に恐れていて、自制しているからかもしれない…
いろいろな思考や感覚、感情は、そのもの…つまり言葉などの記号に置き換える前は、時には儚く、時には必要以上の力を持っている。その強さ自体も人によって感じ方が異なる。
その人や、また環境によっても感じ方が異なり、特に感性がマックスのとき(研ぎ澄まされているとき)は、受容する人物理的に影響を与える事もある(恐ろしさのあまりショック死する人もいるくらいなので)。
だから言葉のような記号にすることでよりフラットにする。
空間で例えるならば、空中(空)と、地面のような感じ。
感覚の世界は空中空間のように無限に広がっている。しかし、そこにとどまっていることは、空を飛び続けるように難しいし、大きな風に煽られて、飛ばされたり落っこちて怪我をする可能性もある。感覚を磨くために、古代にはシャーマニズムの世界のように修行があり、そこには、ドラッグの使用があるものもあり、失敗しないために師匠や教祖のような人に師事したんだと思う。
つまり、感覚の世界は危険であり、それを現実につなぎとめるために言語化(記号化)を行うんだろうと思う。
感覚の世界でぶっ飛ぶことは、(ドラッグなど使わなくても)容易にできる(と、思う、少なくとも僕はできるので)。山に行ったり、森に行ったりして、感覚を研ぎ澄ますことと、本を読んで、素なフラットな文字という記号を、頭の中で、感覚という空間へ展開、解凍、する事で…
そのようなときの僕を見ている人は、僕のクレイジーさを知っている。
お前そんなんだったっけ?と何度か言われたことがある。
でも、そちらの感覚の世界に行き過ぎると、戻ってこれなくなるんじゃないか?という直感がなんどかはたらいたことがあって、恐れという感情が働き、自制してしまう。
僕が海外を好きなのは、日本という同調圧力の強い社会では、開放できない僕の感覚が、少し解き放たれる快感を味わいに行く、という理由が、少しはあるんだと思う。
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こんな長くてよくわからない文章をわざわざスマホで書いて更新している自分はやっぱり変だと、つくづく思う。
勘
勘
僕は…勘が鈍いのかもしれない
誰と誰が付き合っているだとか
実際どうだと、本人たちに告白された時に
ああっ!とそれまでの行動を思い出して、なるほど!と思う事が多い
でも、いろんな噂を教えてもらっても、
そんな事で決めつけて、嘘の情報が流れたらどうするんだ…とおもう。
だから、僕は鈍くていいと思っている。
噂は今までの統計上、ほぼ当たっているんだけど、
根も葉も無い噂だったら、どうするんだ…
それを信じて、なおかつ広めてしまったら、
ずっと後悔する。
だから、そんな勘はいらない。
そんな僕は、一生懸命左手を使う(右脳を使う)練習をする。
決めつけはしたく無いけど、感じる能力(右脳を使うような感覚)は欲しい、と、思う…
素晴らしいことを思いついたと思って
覚えておこうと思って
キーボードに向かったらもう
忘れている
なんでその場で記録しなかったんだと思う
幸せと思う瞬間
東南アジアを中心として、主にアジアで、日本も含めて…
空芯菜炒め
これだけは、言っておきたい。
空芯菜炒めを頼んだ時に、辛いのと辛く無いのどっちですかと言われたら(主に東南アジアで)、
必ず辛く無いので!と言ってください。
辛いのは、辛すぎます!
当たり前のことなんだけど
アホみたいなこの社会を生きる理由は
あほみたいな社会を包む、この
世界がため息が出るほど美しいということ
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いく予定はないけど
パリに行きたい
「プラダを着た悪魔」を何度も見る
エネルギーが湧いてくる
パリにい行きたい
ニューヨークにも
去った場所
どこにも、いけない場所を作りたくない
心苦しくていけないとか、
なんか悪いなだとか…
僕は、常に、行ける場所を増やしていきたい!
後ろめたい思いで去りたくない
しんどくても謝罪する
何を隠そう、自分も、大学の時、バイト先に迷惑をかけた
いわゆるフェイドアウトってやつ…
謝罪に行った!先輩に諭されて、手土産持って、
怖かった
よく来たなって言われた
あのあと大変だったんだよって、笑顔で言われた
その時得た快感、いけない場所が行きたい場所になるって感情
だから、いけない場所を作ってもらいたくないと、誰に対しても思う
別に今後そこに行かなければすむ話だからって思って欲しくない
いけない場所があるってのは、それだけでストレスなんだよ。